恐怖のミイラ


 ついに、この時がやってまいりました。
 心臓の弱い方、恐がりの方、一人暮らしの方…、このページを夜一人で見るのは差し控えた方が賢明かと思われます。
 ここのところ、公私ともに多忙を極め、「お便りコーナー」とか「謎コーナー」とか「HOT TOPICS」などのデータ更新に終始し、「60年代通信」本来のメニューのデータ更新が行えずにおりましたが、敬老の日のお休みを利用いたしまして、私が知る限りでは、日本のテレビ史上、最も怖いテレビドラマのベスト3に間違いなく入るであろう「恐怖のミイラ」を取り上げさせていただきます。
 それにしても、番組のタイトルだけでも、十分に怖い番組なのに、宣弘社プロダクションは、何故、こんなに怖いオープニングのタイトルバックを作ったのでありましょうか。
 気味の悪い音楽を背景に、夜の街をフラフラと歩く包帯姿のミイラの足だけが大写しにされ、カメラが引くとトレンチコートの不気味な影。向かい側から歩いて来た若い女性は、この姿が目に入るや否や、凄まじい叫び声とともに失神して路上に倒れ込む。この後は、レンガの建物の壁に、ミイラの影だけが映され、スタッフや出演者の名前が紹介されるのでありました。
 小学生時代、夜、一人でトイレに行けないほどの臆病者だった私は、はっきり言って、今でも、夜、いや、夜だけじゃなくて昼でも、このオープニング画面を一人で見る自信はありません。
 実は、今回も、この画面の画像取り込みを行う前に、怖くないように一家揃って晩飯を食べる時に、改めて確認しようと思い、ビデオを回し始めたのですが、小学校4年の私の長男は、頭の数秒だけで泣き出し始め、私はカミさんにこっぴどく叱られ、子供のいる前での画面確認作業を断念せざるを得なくなったほどであります。

 この「恐怖のミイラ」につきましては、先日、新設させていただきました「テツオの部屋」の主でありますテツオ君からもリクエストをいただいており、その中で、テツオ君も書いていましたが、「恐怖のミイラ」は「快傑ハリマオ」の後番組として、1961(昭和36)年7月から同年10月まで日本テレビ系列で放送されました。

 私は、以前、「牧冬吉さん追悼特別企画」の中でも書かせていただきましたが、この番組は、あまりの恐ろしさに、1回か2回見ただけで、後は、見るのを止めてしまった記憶があります。
 ですから、ストーリーは全く覚えておりませんで、後年、小学校に入ってからも、当然、この伝説的なテレビドラマであった「恐怖のミイラ」は友人たちとの間で何かと話題になることの多かった番組の一つだったわけですが、ストーリーを知らない私は、いつも、手を前に出してフラフラと歩くミイラのマネをするだけという淋しい子供でありました。
 そこで、改めまして、この「恐怖のミイラ」という番組がどういうストーリーであったかをおさらいしてみたいと思います。
 実は、この画像を取り込む作業も、ひとつには時間がなかったことと、何よりも、やはり、怖いものですから、音は出さずにビデオを早送りしながら画面をチェックしておりましたので、ストーリーの確認は、先日、神田の古本屋さんで買ってまいりました「恐怖のミイラ」のマンガの単行本をベースとさせていただきます。
 まず、左の4枚の画像のうち、左上の、一見、なぎら健壱さんかと思われるような顔をしている人が板野博士でありまして、牧村助手とともに、エジプトで発掘してきたミイラ(左下の画像です)を甦らせるため、その薬の開発研究に打ち込んでおります。この白衣姿や、夥しい数のフラスコやビーカー、試験管などは、後年、私が小学校に入ってから、人体模型が置いてあったこともさることながら、理科準備室に対する謂れのない恐怖感の温床になっていったのではないかというような気もするわけです。

 この“謂れのない恐怖感”ということでは、実は、この板野博士の研究室というのは、洋館風の立派な木造家屋の中にありまして、ドラマの中で出てくる食事シーンは、立派なダイニングルームで、ナイフとフォークを使っていたりしております。また、玄関ホールには、大きなのっぽの古時計という趣きの大時計もあり、私達が子供のころ、洋館風の立派な木造家屋に得も言われぬ恐怖感を抱いたりしたのも、実は、この番組辺りに遠因があったのかもしれないとも思ったりしています。
 でも、考えてみれば、この番組は、実質的には、ほとんど見ていないわけですから、それはそれで、辻褄の合わない話になりますから、やはり、古びた洋館というのは、ただ、それだけで、何か、薄気味の悪いものだったのかもしれませんが、そういうイメージは一体、どこから来ていたのでしょうか。
 こういう古い洋館の画像などを見ていると、私が小学生の頃、通っていた小学校の学区内に、廃屋になっていた立派な洋館風な建物というのがあり、友達なんかと、探検と称して、鍵を壊して入り込んだりしていたことも思い出されます。今に思えば、立派な住居侵入という不法行為でありまして、今、自分の子供がそんなことをしていたら、どんな叱り方をするのか想像も出来ないほどでありますが、やはり、昔は、その辺りが、非常に大らかだったというべきなのか、単に、私達が大胆不敵なだけだったのか、よく分かりませんが…。
 何れにしても、貧乏人の子供のひがみだったのか、こういう大きい家に住んでいる人というのは、ドラマに出てくる悪者のような人たちというイメージを持っていた私は、町内にあった立派な家に東京から引っ越して来た友人宅へ遊びに行った時、ジュースを出されて、飲むのをためらっていると、その子の父親に「大丈夫だよ、毒なんか入っていないから」と言われ、私の気持ちを見透かされたようでバツの悪い思いをしたことがありました。今に思えば、その子の父親のセリフは、よくある軽口なわけですが、当時の私は、人見知りの激しい遠慮がちな子供のくせに、周囲の大人に自分が気を遣っていることを察せられないように、さらに気を遣うという変な子供で、そういう気持ちを見透かされたバツの悪さもあったのかもしれません。

 さて、話がストーリーとは、全く関係のない展開になってしまいましたが、この板野博士がエジプトで発掘してきたミイラは、ある故事に基づくものでありました。
 4000年前のエジプトにいたパトラという美しい王女は、チリサという学者に不老不死の薬を作るよう命じ、チリサは「永遠のねむりぐすり」とそれを覚ます薬の開発に成功します。
 しかし、王女は、その完成した薬を実際に飲む前に、チリサに自分で飲んでみるよう迫り、チリサがためらっていると、チリサの息子でパトラ王女に思いを寄せていたラムセスという若者が、その薬を一息で飲み干したところ、顔や体が醜い姿に変わりはじめ、ラムセスは苦しみながら、その場に倒れ込んでしまいます。
 驚いた父親のチリサは、手にもっていた元に戻す薬の入ったビンを落して割ってしまい、開発に十年もかかった薬と息子を一瞬にして失ってしまったチリサは発狂して死に、息子ラムセスは、父の研究記録とともにミイラとして葬られました。
 つまり、板村博士がエジプトで発掘してきたミイラとは、実は、古代エジプトの学者チリサの息子・ラムセスであり、板村博士の研究とは、そのラムサスを元に戻す薬の開発だったのです。
 板村博士の一人娘であるなぎさ(左の4枚の画像のうち、右下の画像の左側の女性)は、古代エジプト王女・パトラと生き写しであり、このドラマの展開上、非常に重要な役割を果たしていくことになります。テレビドラマの中では、古代エジプトの回想場面では、板村博士の一人娘・なぎさ役だった三條魔子が、そのまま、パトラ王女役も演じておりました。

そして、ある晩、ついに、板村博士と牧村助手は、ミイラを元に戻す薬の開発に成功します。
 板村博士は、牧村助手とともに、完成した薬を注射器に入れ、ミイラの腕から薬を注入しますが、ミイラの体に変化は生じませんでした。
 呆然とする板村博士を尻目に、モノに憑かれたかのような牧村助手は、ミイラの顔面の包帯を緩め、フラスコからミイラの口に直接、薬の液体を注ぎ込んだのでありました。
 すると、どうでありましょう。
 ミイラは4000年の眠りから覚め、包帯ががんじがらめになっている体を少しずつ、動かし始めるではありませんか。
 さらに、表情を変えた牧村助手は、さらに、ミイラの口から溢れんばかりに、薬の液体を、続けて注いでいったのであります。
 しかし、4000年の眠りから覚めたラムセスは、単なる殺人鬼と化し、まず、研究室で板村博士を絞殺してしまいます。
 牧村助手は、何とか、墓場の奥の洞穴に、一旦は、恐怖のミイラを閉じ込めることに成功しますが、その後、板村博士同様に絞殺され、ミイラは街中へとさまよい歩きだしていくのでした。
 街へ逃げ出したミイラを捕らえようとする警察との戦いなどが繰り広げられますが、超人的な力を備えたミイラは、警察の力ではどうしようもありませんでした。
 そんなミイラにも、ただ、一つ弱点がありました。
 それは、薬です。板野博士の研究室から持ち出した薬を飲むことによって、ミイラはその活動を維持できたのです。
 ある時、金庫破りのギャングの一味に仲間と間違えられた後、ギャング一味との争いになり、その過程で唯一の活力源である薬のビンをミイラは割られてしまいます。
 たまたま、ミイラに虜とされていた板野博士の一人娘・なぎさは、父の友人の小泉博士に手紙を出して同じ薬を作ってもらいますが、最後には、「薬を飲んで世間から攻撃を受けながら生きるよりは、あなたはこの世界を去って、昔の…」というなぎさの訴えをミイラは聞きいれ、薬を飲まずに息絶える、というのが、このドラマのエンディングでありました。

 ストーリー展開には、あまり関係ありませんが、当時、この手の番組には、必ず登場した警視庁の旧庁舎や懐かしいパトカーの画像などもサービス・ショットということでご覧いただきたいと思います。
 桜田門のランドマークでもあった、あの丸みを帯びた独特の建物は、あの「七人の刑事」のオープニング・タイトルバックでもあまりにも有名ですが、子供だましっぽい冗長なストーリー展開の少年向けドラマなんかでも、この警視庁の建物が出てくるだけで、ドラマ全体の印象を引き締めることが出来ていたような気がします。
 この「恐怖のミイラ」でも、実際に存在していたのかどうかは知りませんが、「警視庁科学検査所法医科」などという看板が、しかも、医科の医の字が旧字体だったりすると、ますます、ドラマが現実味を帯びてきたりしていたわけです。

 「恐怖のミイラ」で私たちを震え上がらせた戦慄のメロディーを作っていたのは、既に、このコーナーの「仮面の忍者・赤影」で音楽を担当されていた方として紹介させていただいた小川寛興さんでありました。
 また、この「恐怖のミイラ」も、その前の番組「快傑ハリマオ」が、創刊間もない『週刊少年マガジン』で連載されていたのと同様に、『少年クラブ』で放映と同時進行の形で連載されていました。
 番組の提供は、「快傑ハリマオ」と同様に、森下仁丹株式会社でありまして、下の『少年クラブ』に連載されていた時の扉には、「製作・宣弘社プロダクション」とともに、「提供・森下仁丹株式会社」の名前もハッキリと印刷されています。

 右の4枚の画像は、上の画像が1981(昭和56)年にサン出版から刊行された「恐怖のミイラ」の単行本カバーで、下の3枚が、1961(昭和36)年に『少年クラブ』で連載されていた頃の扉です。左から9月号、10月号、11月号の順になっています。
 マンガのタッチは「エイトマン」の桑田次郎を思わせるものがありますが、単行本の奥付けによりますと、楠高治という人は、「桑田次郎のアシストをしながら『少年クラブ』を中心に活躍」とありますから、それも肯けることになります。
 この「恐怖のミイラ」の他の代表的な作品としては、「アトミック・ゴロー(『ぼくら』)、「白バイ・ボーイ」(『たのしい2年生』)などがあるそうですが、私達の世代に最も知られている作品としては、ちょうど私が毎月買っていた頃の『少年ブック』に連載され、1966(昭和41)年から1967(昭和42)年にかけてフジテレビ系列で放映された「遊星仮面」ということになるのではないかと思います。
 「遊星仮面」は、「鉄人28号」「遊星少年パピイ」の後番組として、グリコの提供により同じ時間枠で放送されたもので、何れ、「60年代のマンガ」か「60年代のテレビ」で取り上げさせていただこうと思っています。
 ちなみに、その後、楠高治という人は、学習マンガや教材イラストの分野に、主な活動の場を移されたということであります。

[主宰者から]
 テレビドラマの「恐怖のミイラ」などに出演されていた牧冬吉さんは、皆さんもご存知かと思いますが、今年6月、67歳で他界されました。その折に、牧冬吉さんの追悼特別企画ページも作らせていただいております。「ジャガーの眼」や「隠密剣士」「柔道一直線」など、まだ、「60年代通信」の中で本格的に取り上げさせていただいていない作品についても、サワリだけですが紹介させていただいておりますので、この「恐怖のミイラ」のページをご覧いただいた皆様には、ぜひ、牧さんを偲んでいただく意味からも、お立ち寄りいただければと思います。
 よろしくお願いします。










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